KEAF-Japanイメージ

KEAF-Japanの沿革

戦争取材で結ばれた友情

 ポル・ポトが率いるクメール・ルージュは1975年4月、首都プノンペンを制圧し、米国が擁立した軍事政権は消滅しました。この劇的な戦争終結の瞬間を世界に至急報で打電したのは共同通信記者コン・ボーンさんでした。
 コン・ボーンさんはポル・ポト政権の処刑を奇跡的に逃れ、1981年家族を連れて難民として日本に亡命しました。身元引受人になったのは、戦争取材で危険をともにした共同通信の仲間の記者たちです。KEAF-Japan会長・金子敦郎もその一人でした。
 内戦がようやく終結に向かい、国連監視下の総選挙が行われた1993年、コン・ボーンさんは12年ぶりに一時帰国、「祖国の復興と平和には教育が大切」と痛感します。コン・ボーンさんは村井孝至さん(元共同通信プノンペン支局長)らに協力を求めて、郷里のプレイヴェン州プレアスダック郡地方で子どもたちの教育支援運動を始めました。
 こうしてボランティアNGO、カンボジア教育支援基金(Cambodia Education Assistance Fund、略称CEAF)が生まれ、コン・ボーンさんと村井さんが初代共同代表に就きました。

学校建設から運動が始まった

プラテアート中学 CEAFは募金運動で集めた基金によって1999年までにバンティチャクライ中学、プラテアート中学、ソンポン小学校、プレイトープ小学校を建設しました。
 しかし、数年後に建てた学校を訪れると、校舎は手入れもされず、先生も出てこないという現実に突き当たりました。先生は国からの給料だけでは家族を食べさせることができないので、副業のために学校も休みがちになるというのです。
 そこで5番目のカンボジア日本友好学園(当初は中学校、現在は中・高校)から新しい試みとして、先生への生活支援を始めました。同学園は中学1年生147人でスタートしたあと高校を併設して中高一貫高となり、CEAFおよび姉妹団体のCEAF長野や村井孝至さんの郷里・佐賀に生まれた「フロム佐賀」が協力して校舎増設、生徒への奨学金などへ支援を広げました。
 これによって同学園は周辺地域では最も教育環境の整った学校として、毎年定員の何倍もの入学希望者が押し寄せ、カンボジアでは異例の選抜入試をすることになりました。

活動の新たな展開

 カンボジア日本友好学園を「有名校」に育てたことは、首都プノンペンなど都市部に大きく後れている農村部の教育のレベルアップを牽引するという面で意味があったと思います。コン・ボーンさんは同学園の支援をさらに強めていきたいと考えています。
 これは一方で周辺の学校との格差をさらに広げることになります。私たちは地域の教育環境の底上げを図るという原点に戻ることにして、2007年夏「友好学園」への支援は終わりにして、その「資源」を周辺校へ振り向けることにしました。
 それまでCEAFは東京とプノンペンにそれぞれオフィスを持ち、必要に応じてCEAF・東京、CEAF・プノンペン(現地代表コン・ボーンさん)という呼称を使ってきました。
 カンボジア現地でそれぞれが独自に支援活動を行うことになったのにともない、われわれの現地活動のさいの英文名称を「KEAF−Japan」と改めました。
 KEAFの現地支援活動は、プレアスダック郡のCEAFが建設した前記4校、プロモルプロム高校、ブレアンドウン高校、コンポントウラバイ高校、隣接スヴァイリエン州アンサー小学校などを対象にしています。