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生き残った1人が子どもたちへの教育支援をはじめた

 通信社の記者を40 年近くもしたので多くの国を知ることができた。そのなかで一番深く長くかかわりを持つことになったのがカンボジアである。歴史的な悲劇を背負った小国で世界最貧国のひとつながら、人々は何となく優しくて人懐っこい。その国の大地に、危険な戦争取材をともにした2人の日本人ジャーナリストが眠っている。そしてもう1人のカンボジア人記者はポル・ポト派の処刑を奇跡的に逃れて生き残り、カンボジアの将来を子どもたちの教育支援にかけている。

クメールの栄光と悲劇

 カンボジア国民の9割以上を占めるクメール民族は、9 世紀ごろからアンコールワットに代表されるアンコール文明を開花させ、タイからインドシナ半島の大半にまたがる帝国を建設した。クメール民族は海洋系でインド文明の強い影響を受けていた。周辺諸国がモンゴロイド(黄色人種)で中国文化圏に属していたなかではユニークな存在だった。このことも影響していたのかもしれないが、13 世紀ごろから隣国のタイとベトナムの挟み撃ちにされ、侵食され、衰退した。だからカンボジア人のほとんどはタイとベトナム、特にベトナム人が嫌いだ。
 19 世紀半ばにはベトナム、ラオスとともにインドシナ3国はフランスの植民地支配に屈した。第2次世界大戦が終わり、世界は植民地解放の時代に入った。だがカンボジアにとっては新たな悲劇の始まりだった。ベトナム支配を手放すまいとするフランスと民族解放・独立を求める左翼勢力との激しい戦争が始まった。フランスが敗退すると、米国がこの戦争を自ら買って出た。ベトナム・カンボジア国境のジャングルは米軍に追われたベトナム・ゲリラが逃げ込む「聖域」になった。
 カンボジアの指導者シアヌーク殿下はフランスとの話し合い独立を目指しながら、「隣国の戦争」には巻き込まれまいと必死の「綱渡り外交」に努めた。だが、殿下は1970 年親米右派の軍事クーデターで追放され、カンボジアはベトナム戦争と一体化した戦争に引きずり込まれてしまう。シアヌーク追放はカンボジアを戦争協力に動員しようとした米国の筋書きだったといわれる。ジャングルに潜んでいた「クメール・ルージュ(赤)」と呼ばれるカンボジア左派勢力が反米・反軍事政権の戦争の主役に踊り出た。

謎のクメール・ルージュ

 「クメール・ルージュとは何者なのか」−この謎に迫ろうとプノンペンに世界中から記者、カメラマンが詰めかけた。共同通信プノンペン支局長・石山幸基とフリーカメラマン・一ノ瀬泰造もその中にいた。当時サイゴン(現ホーチミン)に駐在しでベトナム戦争の取材に当たっていた筆者も、時に応じてプノンペンに入った。2人と取材や食事、お酒−と親しく付き合うようになった。
 ベトナム戦争で身に着けたゲリラ戦争取材のコツはカンボジア戦争では通用しなかった。クメール・ルージュがいつ、どこから出てきて、どこに消えるのか。それが全くつかめない。軍事政権側の兵士もまだ戦争に不慣れだ。いつの間にか戦闘に巻き込まれ死亡する記者・カメラマンが続出し、その数は数十人にも達した。それなのにタイゾー(一ノ瀬はカンボジア人にこう呼ばれた)は、まさに戦闘のその現場にいなければとらえられない迫真のショットを数多く残している。彼には危険を察知する鋭いカンと判断力が備わっていたからだ。戦場取材は彼のあとについて行けば安心だった。
 石山は1973 年秋プノンペン北約40 キロ、古都ウドン近くの村の人民委員会の招待を受けて取材に入った。この解放区取材のお膳立てをしたのは共同通信支局のカンボジア人記者、コン・ボーンだった。タイゾーも同じころ、アンコールワットの地元の町シエムレアップから、クメール・ルージュ支配下のアンコールワット遺跡群の取材に向かった。2人はそのまま戻らなかった。コン・ボーンと筆者は必死で2人の行方を探った。手がかりはえられないまま、間もなくクメール・ルージュの総攻撃が始まり、捜索の望みは絶たれた。

恐怖政治−代理戦争

 1975 年4 月17 日プノンペンが陥落、黒装束のゲリラ兵を市民は歓呼で迎えた。「平和到来」と思ったのだ。コン・ボーンはこの歴史的な瞬間を至急電報で世界に報道した。2週間後の同30日サイゴンも陥落し、インドシナ戦争は終わった。カンボジアはクメール・ルージュの恐怖政治のもとにおかれ、宿敵ベトナムとの戦争が始まった。クメール・ルージュの処刑現場から奇跡的に逃れたコン・ボーンは家族ともめぐり合い、1980年タイに脱出、共同通信バンコク支局と連絡がついた。一家は日本に亡命した。戦争取材をともにした共同通信の記者たちや朝日新聞の友人が助けた。
 ベトナムは1979 年初めポル・ポトが率いるメール・ルージュ政権をプノンペンから追い出し、ポル・ポト派を離脱した親ベトナム派による政権をつくった。極端な反西欧文化・反ベトナム政策をとったクメール・ルージュ支配の3年半余りの間に、170?200 万人が強制労働や飢餓、政治弾圧によって命を奪われた。取材を通して知りあった多くの人々で生き残ったのは、コン・ボーン一家のほかはあまり知らない。
 ポル・ポト派はジャングルに逃げ込み、プノンペン政権との間で長い内戦が始まった。ベトナムとソ連がプノンペン政権を、米国と中国がポル・ポト派をそれぞれ支援した。身勝手な大国の“代理戦争”に仕立てられたのである。

「地雷を踏んだらサヨウナラ」

 1981年夏、内戦が激化するまでの束の間の、戦闘沈静の時期があった。プノンペン政権が石山記者捜索のための共同通信調査団の入国を認めてくれた。筆者は石山の夫人、母堂、兄の家族3人が加わった調査団の責任者を務めた。「仏様の引き合わせ」(母・蓁さん)としか思えない幸運が重なって、石山がプノンペン西方約120 キロの山岳地帯に置かれたポル・ポト派大幹部タ・モクのゲリラ基地で熱病に罹って衰弱し死亡、戦没ゲリラ兵の共同墓地に埋葬されたことが分かった。石山を看取ったというゲリラ基地の下働きの女性に偶然出会ったのである。
 調査団はまたシエムレアップで、タイゾーがクメール・ルージュに捕まり処刑されて、アンコールワット近くの村に埋葬されているとの情報を得た。両親が現地に入り遺体を確認した。両親は一ノ瀬が残した大量のフィルムをもとに『地雷を踏んだらサヨウナラ』など何冊もの写真集を刊行した。戦争とは何か−傷つき、死んでいく若い兵士たち、逃げまどう母と子、スラムの孤児。戦争カメラマン・一ノ瀬泰造の名は広く知られることになった。命をかけて戦争の悲惨さに怒りと悲しみをぶつけ、銃弾を避けながらシャッターを押し続けた彼の生き方は映画や演劇の主題にもなり、「自分」を見つけられないで悩むに若者に強い刺激を与えている。「一ノ瀬泰造の墓」はアンコールワット観光地めぐりの名所のひとつになった。

36年かかった石山記者の墓地確認

 石山記者の「墓」に遺族や私たちが到達できたのは消息を絶ってから36 年後のことだった。冷戦終結によって内戦も鎮静化し、1993 年には国連監視の下で総選挙が行われた。90 年代後半に入るとポル・ポト派幹部の帰順が始まり、ポル・ポトも死亡、カンボジア人はようやく「自分たちの国」を持つことができるようになった。
 石山が眠る元ゲリラ基地はタイ国境につながる山岳地帯の主峰クチョール山の山腹にあった。生き残りの元タ・モク支配下ゲリラの案内でたどり着いたのは、原始林がふと途切れた「空間」。石山はそこに6人の戦死ゲリラとともに埋葬された。クチョール山は標高500メートルを越える山塊の最高峰。山頂付近はいつも雲がかかり、風が舞っていて、地元民は「神の山」とあがめていた。
 08年の第1回予備調査団は石山陽子夫人、誕生直後に父を失った長女美枝子さん、筆者ら共同通信OBグループで編成、09年1月の調査団には美枝子さんに代わって長男健吉さんが加わった。健吉さんは父親を継いでNHK記者になっていた。陽子夫人と健吉さんが共同墓地に缶ビールと清酒のビンを供え、線香をたいて静かに手を合わせた。あの時、この時・・・いろんな映像が私の脳裏を駆け抜けて行った。

子どもたちのために

 コン・ボーンは1993 年に12 年ぶりに帰国、全土が破壊しつくされ、郷里プレイヴェン州には学校がひとつも残っていないことに衝撃を受けた。カンボジアが悲劇の歴史を繰り返さないためには、教育の再建から始めなければならない。コン・ボーンは共同通信の仲間をはじめとする日本の友人や在日カンボジア人たちの協力を得てカンボジア教育支援基金の運動を開始した。



 カンボジア教育支援基金(KEAF‐Japan)
 会 長    金 子 敦 郎